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巻頭コラム07

解説:「希望はあります」――世界を冷ますラミスさんの言葉
*『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社ライブラリー)あとがき

『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』は、ぼくにとって特別な本だ。ぼくが教えている大学で教科書として使っている。一年生のためのゼミ形式の授業にいきなりこの本から入ってゆくのだが、ぼくはこれが新入生諸君を歓迎するための最良の方法だと信じている。ぼく自身がそうであったように、若者たちはこの本を読んで少なからぬ励ましを受ける。それまで自分たちを包み込んでいた無力感の霧がスッと後景に退いて、戦争とか環境破壊とかのうんざりするほど重く大きな問題が、「変えるものとしての現実」(213頁)というくっきりとした新たな相貌で現れる。本の最後で、「希望はあります」と著者のラミスさんは言い、しかしそれにすぐ続けて「もし間に合えばの話です」(229頁)、と断るのだが、読者は確かに希望を手にしてこの本を閉じることになる。その証拠に、ぼくは学生たちの目が輝き始めるのを見てきた。

本屋で単行本を最初に手にとった瞬間からこの本がずっと好きだ。タイトルはちょっと長すぎて未だにちゃんと覚えられない(最近ラミスさんにお会いした時に、彼でさえ覚えられないと言っていた)のだが、しかし何といっても、少し小ぶりでシンプルで透明感のあるデザインがいい。まるでラミスさんの文章みたいだ。ぼくはちょうど、同じ平凡社から本を出すことになっていたので、早速、担当の編集者を呼び出して、こうもちかけた。ラミスさんのあの本と同じ大きさと厚さで、似たようなシンプルな装丁の本にしたい。編集者は、まだ中身も定かではない本の外観にばかりこだわるぼくに、きっと呆れていたのだろう。結局、ぼくの『スロー・イズ・ビューティフル――遅さとしての文化』という本は、『経済成長がなければ・・・』からちょうど一年後の2001年9月に出版された。ぼくの本を読んだ人は知っているように、それは装丁ばかりでなく、内容的にも、ラミスさんの本に多くを負っている。

あの9・11事件以後、世界の危機はいっそう深まり、世間を覆っている思想的な靄の中で、ラミスさんの思想は逆に透明度を増している。『経済成長がなければ・・・』はますます重要な教科書になりつつある。この本のひとつの特長は、戦争と平和の問題を環境問題と同列に論じていることだ。普通、憲法9条を論じる人が、同じ本で地球温暖化について論じたりはしないものだ。ラミスさんはそれをやっている。

戦争と環境破壊という、どちらも人類の生存そのものを危うくするようなふたつの危機は、互いに密接に関係している。しかしそればかりではない。これらふたつの大きな問題は、日々の暮らしの中で多くの現代人に生きづらさを感じさせているさまざまな問題と根っこの部分でつながっている。その根っことは、経済成長や消費増大などを最優先にして、そのためには生態系や平和や家庭の幸せを犠牲にしても仕方がないとするような社会のあり方だ。1960年代後半からE.F.シューマッハーやイヴァン・イリイチが語ってきたこのことを、ラミスさんは現在の日本に即して語る。

そういう社会のあり方を、ぼくは「ファスト」と形容する。なぜファストかといえば、それはより速く、より多くつくり、売るものが勝つという競争原理に基づいているので、社会が全体として加速するからだ。競争原理が社会の隅々まで浸透した今の日本の社会は生きづらい。生産性や効率性をめぐる競争が、本来は相互扶助の場であるはずの地域やコミュニティや家庭の中にまで入り込む。より非効率的で非生産的な者は競争に負け、取り残され、差別され、排除されることにもなる。「より優れた生命」を選び、「より劣った生命」を排除する優生思想がはびこる。伝統社会で培われた自然とのエコロジカルで持続可能な関係はないがしろにされ、単なる資源と見なされた生態系は搾取される。

こんな「競争社会を支えている基本的な感情は恐怖だ」(138頁)とラミスさんは言う。9・11以後の米国や日本では、このことがますます露わになっているようだ。それはラミス流に言えば、社会の安全{ルビ:セーフティー}ネットが弱いことを意味している。「お互いに、誰でも例外なく面倒を見あえるような」共生型の社会であれば、「その恐怖は減るはず」であり、恐怖が減れば、「健全なゼロ成長の社会は可能になるのではないか」、と(139頁)。

恐怖ではなく、安心や愉しさをこそエネルギーにして発展するような「スローな」社会の姿をラミスさんはぼくたちに想像させてくれる。物質的な豊かさではなく、本当の意味での豊かさにあふれる社会をつくる、それは経済成長などという物語よりも「はるかに面白い歴史的プロジェクト」なのだ、と。そのプロセスを彼は、これまでの「開発」や「発展」に対して、「対抗発展{カウンター・デヴェロップメント}」と呼ぶ。彼によると、対抗発展は「減らす発展」だ。それは、エネルギー消費を減らす、経済活動に使う時間を減らす、値段のついたものを減らすことを意味するだろう。その代わりに、経済以外の価値、経済活動以外の人間の活動、市場以外のあらゆる楽しみを増やし、発展させることを意味する(135頁)。

物質的な豊かさを誇っているはずのぼくたちの社会では、実は、「生きていることを楽しむ」(151頁)文化的な能力が、萎縮し、衰弱している。だからそこでは「環境」や「平和」や「人権」が、禁欲的な「きれいごと」のようにさえ感じられてしまう。そしてまるで共生よりも競争の方が楽しげで、豊かな生態系よりもコンクリートだらけの人工的な風景の方が美しく、戦争しない国よりも戦争する国の方により多くの歓びがあるかのような倒錯した幻想がまかり通る。

次の箇所に、ぼくはピンク色の付箋を貼ってある。
「「対抗発展」は禁欲主義ではなく、本当の意味の快楽主義であるとあえて言いたい。・・・消費による快楽ではなく、・・・われわれ人間の快楽、楽しさ、幸福、幸せを感じる能力、それらを発展させるのです。これが基本だと思います」(150頁)

このラミス流快楽主義こそ、『経済成長がなければ・・・』が特別な本であるもうひとつの理由だ。それは、青ざめてしまった平和という言葉にもう一度生気を送り込んでくれる。人間と自然との関係における平和と、人間同士の間の平和。それこそがぼくたちの生存の基盤であり、だからこそぼくたちの幸せの源であるというあたりまえのことを思い出させてくれる。懐かしさに少し照れくさいような気分で、ぼくは9条という快楽、エコロジーという快楽を抱き寄せる。

ぼくが大好きなもうひとつの本の中で、ラミスさんは「考える」ことの効用をこう表現した。「考えるということは、涼しくて、湿り気があって、ほっとさせてくれるものなんだ」(『考え、売ります。』69頁、平凡社)。世界中が投機的で競争的で攻撃的な雰囲気に包まれて、ますます熱くなってゆく今、ぼくたちは、涼しくて、湿り気があって、気持ちのいいラミスさんの言葉をこれまでにもまして必要としている。