| (RORキャンペーン2003公式資料集のまえがき)
環境運動で世界的に有名なデヴィッド・スズキは日系3世だが、ほとんど日本語ができない。しかしその彼がおじいさんから習って今でも覚えている大好きな日本語がある。「もったいない」。彼と仕事で日本中を旅していた時、彼はこのことばを連発していた。彼によると、英語にも訳すことのできないこの言葉は、日本の伝統的なエコロジー思想を表す貴重な遺産なのだった。
そして去年、デヴィッドの娘セヴァンが来日した時、全然日本語を知らないはずの彼女が「もったいない」と言っているのを聞いて、びっくりした。まず彼女がとりあげたのは、日本人が毎年250億膳の箸を使い捨てにしていることであった。「もったいない」、彼女はそういって悲しそうに首を振った。大量生産、大量消費、大量廃棄の道を突っ走ってきた彼女の父祖の地では、「もったいない」ということば自体が死に瀕していることを、彼女は知らない。
科学技術の「進歩」や経済の「成長」が、生態系に深刻な破壊をもたらしてきたこと、そしてその結果我々人類の生存そのものが脅かされるようになったこと、についてはよく論じられているから、君たちも知っていると思う。経済のためには環境破壊や戦争も仕方ないなんていう経済は、経済という名に値しない。そんなのはインチキの経済だ、と言い切ってしまっていい。でも、そこでもうひとつ、こう自問してみる必要がありそうだ。「進歩」や「成長」の恩恵に浴したはずの我々はその分本当に豊かになり、幸せになったのか、と。実は逆に、ハイテク技術にますます依存し、従属するようになった結果、生物としての、人間としての我々の能力は萎縮し、「時は金なり」の経済競争の中で、多忙になり、疲弊し、人間同士の関係は希薄になり、自然との関わりも貧しくなる一方なのではないか。命を粗末にするような「もったいない」経済がぼくたちを幸せにするはずがないのだ。
「もったいない」という言葉は君たちの耳に古めかしく響くだろうか。生活の簡素化とか節約という引き算は、経済成長という足し算に慣れきっている者には消極的で後ろ向きな感じがするかもしれない。でもぼくにとって、それは人間にとって本来の快楽や豊かさをめざす、積極的で前向きな考え方だ。自分がこれまで依存してきたモノたちを少しずつ減らしていって、それらがなくても平気な人間になる。人間の能力の代わりをする機械を減らして、その代わりに必要に応じて人間の能力を伸ばすような道具を増やす。そうやって本来の意味における文化――自前で生きていることを楽しむ能力――を取り戻すのだ。「効率」の名のもとに切り捨ててきた人と人との、人と自然との関係を回復していく。時間をどんどん換金するようなこれまでの生き方をやめ、金を減らしてでもゆったりとした人間らしい時間を取り戻す。引き算というスローダウンは実は豊かさへのワクワクするような道筋なのだ。
自分にとって本当の豊かさとはなんだろうと、自問してみてほしい。ぼくは例えば、食の豊かさについて考える。そのイメージはファストフードの対極にあるもの。だからそれをイタリア人たちはスローフードと名づけた。せめて食事の時にはテレビを消して、食卓を囲みたいものだ。ついでに電気を消してローソクでも灯したらもっといい。「共に食うこと」や「輪になること」や「火を囲むこと」はどれも、人間の文化の基本的なテーマだったはずだ。そして、今自分の前にある食べものは、いわばつながりのかたまり。人からなるコミュニティの、また生態系というコミュニティの、いのちの連鎖がそこに凝縮している。だから、食事とは、その一回、一回が祭りであり、祝いであり、祈り。豊かさとはそういうことではないか。
大量生産、大量消費、大量廃棄のライフスタイルの中でどうやらぼくたちはあまりにも貴重なものをたくさん失ってきたようだ。ああ、もったいない。しかし今からでも遅くない。自然を、社会を破壊する経済を、自分なりにできるところからナマケよう。コンセントを抜いて、アンプラグする。はじめはちょっと勇気がいるかもしれない。でも大丈夫。君はひとりじゃない。スローライフ。それは、これまで「効率」の名のもとに犠牲にしてきた人と人との、人と自然との関係の修復とつながり直しをも意味している。そしてそこにこそ本当の豊かさと快楽はあふれているはず。
そう思えば、ほら、「もったいない」という言葉はなんて美しい響きをもっていることだろう。このことばをさりげなく、しかし魂をこめて言えるようにぼくはなりたい。
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