| 「ブラブラする」という表現は、概ね否定的な意味を背負わされていますね。女性について「あの人はまだブラブラしている」といえば、適齢期を過ぎてもまだ結婚しないことへの批判になりますし、男性について「ブラブラしている」といえば、たいがい失業中の身の上を卑下したり、哀れんだり、ということになる。勿論、今では、フリーターなどというものもあるし、結婚しないことを選ぶ女性たちも増えて、そこにはかつての「オールドミス」などというせつないイメージはありません。しかし、それでは「ブラブラ」が近年より高い評価を得るようになって、昔より大手を振って歩くようになったかというと、そうとは思えない。いやむしろ、「ブラブラ」はますます社会の片隅に追いやられて居心地悪そうにしているとしか、ぼくには思えないのです。
要するに「ブラブラする」とはどんな状態かというと、それは「生産的でない」状態のことでしょう。そしてそのことによって当人の社会性に欠損が生じている、と判断されるのでしょう。その場合の社会とはある共通の目標や目的をもつと信じられている共同体です。人々が、その目標ヘと向かうプロセスの中に参加しているのに、ある人がそこから逸脱している。人々が「がんばっている」時に、その人は「ブラブラしている」わけです。
共通の目標や目的が一番はっきりしているように感じられるのは、その社会が戦争を遂行している時でしょう。そういう時にブラブラしていると、「非国民」とか「反逆者」とかにされてしまう。今の社会ではそれほど、共通の目的や目標が鮮明であるわけではない。しかし、今でも戦後の日本を支え続けてきた「生産性」への信仰(呪縛といいましょうか)が弱まったとは言い難いようです。いろいろな分野で、日本の社会の「改革」が叫ばれますが、それらは戦後の日本人を駆り立ててきた目標そのものを、問い直したり、反省したりすることを目指しているわけではありません。結局は、消費拡大、景気回復の大合唱。グローバリズムというさらに厳しい競争の中で、大量生産、大量消費のマスエコノミーは永遠に成長し、勝ちつづけなければならないというのです。
同じゴールに向かって競い合うのが、競争というもの。いつのまにか、我々現代人は競争原理こそ社会の基本原理だ、それなしには健全な社会というものが成り立ちにくい、と思い込んでしまったようです。競争がないと、人はなまけるようになる。ブラブラしてしまう。するとその社会は発展をやめ停滞してしまう、そして堕落してしまう、というわけです。でも本当にそうでしょうか。
社会とはそもそも同質の人々が同じ目標に向かって競争的に生きる場所ではないはずです。競争原理を基本とする社会、「生産的」で「効率的」であることを追求する社会では、次第に利害関係から切り離された人間同士のつながりは、無駄なもの、余計なもの、邪魔なものとして次第に疎んじられていくようです。しかし、思えば、本来人間の生きがいとは、家族の団欒や共同体の宴、あるいは友だちや恋人とブラブラ、これといった目的もなく過ごす、だから、生産性や効率性の観点から見れば無駄にしか見えないこうした時間にこそあったのではないでしょうか。
時間を「無駄に過ごす」ことのチャンピオンは幼い子どもたちですね。そういう時間が遊びです。それは日常の現実生活の論理性から逸脱しているから、そして合目的性から自由であるから輝いています。「無駄」だからこそ充実しているんです。
また、競争原理を基本とし、生産的で効率的であることを追求する社会では、より非効率的で非生産的な者は競争に負け、取り残され、差別され、排除されることにもなる。優生思想とはそういうことではないでしょうか。「より良い生命」、「より優れた生命」が選ばれ、「より悪い生命」「劣った生命」が排除される。
我々の住む社会は今、競争一辺倒主義や生産性主義や優生思想などに大きく傾いてしまっていると思うんです。ブラブリズムはこのことに対する警鐘です。それはしかし、怠けることの奨励では必ずしもないんです。むしろ大事なのは、競争の外側にあるはずの居場所を見つけること。生産性から外れている自分を再発見すること。現代の若者は目標を失っている、とよく言われます。だから、社会が目標を与えねばならないとも。しかし、ぼくが思うに、若者たちが競争主義や生産性主義や物質主義や拝金主義に愛想を尽かしているのは、むしろ喜ばしいことなのです。親の世代や、またその親の世代が追い求めてきた「物語」に彼らがあきあきしているとしたら、それは頼もしいかぎりです。彼らにとっての本当の危機とは、古い物語の外側にあるはずの居場所を、根拠地を見つけられないでいることではないでしょうか。彼らが幼い時に必要だったのは遊びです。ブラブラすることです。そして今も彼らはそれを奪われ続けている。いや、若者ばかりではないはずですね。中年の我々も、さらに高齢の我々も、同じ危機に直面しているのではないですか。
いつから我々はこんなに急いで脇目も振らずに(でも携帯電話をしながら)道を行くようになったのでしょうか。「道草を食う」こともなく。「油を売る」こともなく、「銀ブラ」することもなく。思えば我々は誰も皆、遊ぶために生まれてきたのではなかったか。今こそ「ブラブラ」の復権を、遊びの奪還を。
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