世話人のコーナー
辻信一
中村隆市
アンニャ・ライト
その他のコラム
 
その他

世話人・辻信一のコラム


なぜ頑張らなくちゃいけないの?(『マスコミ市民』2000年4月号より転載)

(これは連載中のリレー・エッセイで、3月は大岩剛一さん、5月は中村隆市さんです。御意見、御感想、御批判をお寄せ下されば幸いです。辻)

 ぼくの友人がいつも言うんです。「障害者はなんで頑張らなくちゃいけないの?」と。脳性マヒの彼は、自分のことをウチュウジンと呼んでいます。宇宙塵。自分は宇宙のゴミ、つまりれっきとした人間だよ、という彼ならではのポエム。

 彼はオリンピックが大嫌い。そして、そこに「金魚のフン」のようにくっついているパラリンピックは特に嫌だ、と。「より早く、より高く、より遠く」。国旗をふりたてて、「がんばれ、がんばれ」の大合唱。まず、普段から、健常者たちに「がんばれ、がんばれ」といわれるのが嫌いな宇宙塵だが、二年に一度めぐってくるこの「頑張り」の季節は一層不快です。

 まず国対抗であるところが気に食わない。どうしても軍国主義と重なってしまう、と宇宙塵は言いいます。「君が代」と「日の丸」をなりふり構わず押し通そうとする「愛国者」にとって、確かに国対抗のスポーツほどありがたいものはないでしょうね。強制しなくても人々はすすんで日の丸を振り、君が代を歌ってくれる。第二に、「障害」の有無によってオリンピックとパラリンピックを分けるところが気に入らない、と宇宙塵。彼は、健全者と障害者が入り混じって格闘するプロレスの方が、ずっと面白いと言います。そして第三に、「障害者のオリンピック」というけれど、実際出場者のほとんどは、「生まれつき」ではない、いわゆる「中途障害者」であって、宇宙塵に言わせるなら、パラリンピックとはいまだに健常者社会の競争主義的な価値観を持ち続けている人々による競技会なのです。

 それにしても、オリンピックとか万博とかサミットとかワールドカップとか、国をあげて頑張るイベントというのは、ひとつひとつはたまにしかなくとも全部合わせるとしょっちゅうありますよね。大阪ではオリンピック招致で大騒ぎ。ぼくが住む町の駅でも今、電光掲示板で、「ワールドカップまであと四百何日」とやっている。「地元開催を成功させよう!」

 毎度のことにもうそろそろ人々も飽き飽きしてこないもんでしょうか。カンフル剤的な経済効果を狙うのは、大型公共事業依存症の国民には朝飯前。でもそれだけではない。自分の住む町に、「あと四百何日」という表示が出るのがぼくにはとても不愉快です。それは、ミヒャエル・エンデの『モモ』の灰色の男たちが、町に持ち込んで以来すっかり人々の心を変えてしまったという時計みたいなもの。それは、われわれが「みな同じゴールへ向かって直線的に進んでいる」という幻想をつくり出そうとする一種の「時計」。普通の時計もまたリニアで一様で均質で共通な時を刻む、ひとつの幻想だといえますが、「あと四百何日」には、さらに「共通のゴール」という物語がつけ加わっています。そこへと向かって生きることが、まるで共同体の一員である条件だとでもいうように、つまりそこからの脱落には孤立という罰が待ち構えているとでもいうように、「あと四百何日」はぼくを縛ろうとする。ぼくにはそう感じられます。

 1964年のオリンピックを思い出します。それは少年だったぼくにとって忘れがたい強烈な経験です。大げさと言われでしょうが、ぼくより上の世代の戦争体験にも似ているとぼくは勝手に思っています。

 その日に間に合うように購入したカラーテレビで開会式を見ようと、近所の人々が我が家にやってきていました。興奮に少し上ずったアナウンサーの声。アジアの、ニッポンの、東京の空の下に初めてひるがえる五輪旗。終戦の年に広島に生まれ、戦後逞しく成長し、すらりと伸びた長い足をもつにいたった最終聖火ランナー。戦争の象徴から平和の象徴へと変身した天皇の開会宣言。乱れ飛ぶハト。

 それはよくできた物語だったといえます。近所の人々はみな泣いていました。ぼくの心も高ぶっていたなあ。今思えば恐らくそれはこういうことだったでしょう。ぼくたちは皆一体感を感じていたんです。ともにひとつのストーリーを生きているという一体感。廃虚の街は繁栄の都に生まれ変わり、貧しさは豊かさへと、破壊的な戦争は平和的な競争へと変換される。それは「奇跡」の物語。奇跡の復興、奇跡の経済成長。この物語に心酔したのが日本人ばかりでなかったことをぼくは後に知ることになります。世界中を被いつくそうとする「成長」と「開発」のイデオロギーが、東京オリンピックに恰好の寓話を見い出していました。今よりも明日は、来年は、次世代は、そして未来は、より良いものになると、人々は信じることができました。だから頑張ろう、きみもぼくも。

*  *  *

 宇宙塵はしょっちゅう人から「がんばれ」と言われます。ゴミを出しに行く時さえ、近所の人に「頑張ってね」、と。おかしくてしかたがないというふうにからだを大きく揺すって笑いながら宇宙塵は言います、「おかしいよね、ゴミがゴミを捨てに行くんだから」。ある時誰かが別れ際に、つい「頑張ってね」と言いました。そう言われた宇宙塵はやはりクッ、クッと笑いながら(それにしても彼は本当によく笑います)「ガン・バラ・ナイ・ヨ」

 『五体不満足』という本がベスト・セラーになり、著者の乙武洋匡がメディアで活躍し始めてから、暮らしにくくなった、と宇宙塵は不満そうです。「あんたも出歩く時は乙武さんみたいに、少しパリッとした格好しなくちゃね」とか「乙武さんのようにネクタイでもしたら」などと言われるようになった。以前にはなかったことだそうです。概して、障害者に向けての「頑張れ」という声は、以前より一層声高になったのではないか、と宇宙塵は感じ、それを危惧しています。

 『五体不満足』についての宇宙塵の不満は、『五体不満足』が「障害を頑張って乗り越えた男」の話になってしまっていること。確かに、主人公の乙武少年は頑張り屋で負けず嫌いです。手も足もない障害者であることを「言い訳にしない」という信念をもって、彼はスポーツ競技に、文化祭に、生徒会役員選挙に、恋愛に、入学試験にと挑戦してゆく。

 「ぼくは乙武に腹をたてているんじゃない、乙武をああいう形でもち上げるメディアに対して怒っているんだ」と宇宙塵は言います。確かに、乙武がメディアに「乗せられた」ということだったかもしれません。メディアにとって『五体不満足』はあくまで「頑張り」の物語であり、障害者が健常者の社会の中に自らの場所を獲得してゆくサクセス・ストーリーに仕上がっています。おしゃれで、スポーツ好きで、負けず嫌いで、競争心に富んでいる主人公こそこのストーリーのふさわしいヒーローだったということでしょう。

 それにしても『五体不満足』は誰の予想や思惑をも越えて、多くの読者をつかみました。宇宙塵によれば、それは主人公が健常者の望む「障害者像」にピタリとはまった、ということを意味しています。ぼくは健常者の読者のひとりとして想像してみるんです。読者である健常者たちはこの本によってある種の大きな慰めを受けたのではないか。今流行のことばでいえば、「癒された」んです。

 健常者が障害者に「頑張れ」と言う時、そこには同情とともにかすかな罪の意識が潜んでいるのじゃないかな。なぜなら、「このレースは障害者にとってフェアではない」という認識があるから。しかし、そう思いながらも健常者はこう言うしかない、と感じる。「このレースはフェアではないが、しかしそれでも君はレースを続けるしかない。なぜならそれ以外には生きがいのある人生はないだろうから」

 だから健常者は、脱落もせずにレースに居残りつづける障害者や、不利をものともしない障害者を賞賛せずにはいられません。心のどこかにわだかまっていた罪の意識も、「頑張って障害を克服した」人々を前にして、一瞬解消するように感じられる。そして、そうした人々の存在に励まされ、あるいは叱咤されるように、「自分もまた彼らに負けぬように頑張って人生というレースを続けていこう」と思う。なぜなら「それ以外には生きがいのある人生はないだろうから」

*  *  *

 「頑張る」ということばは戦争を連想させる、と宇宙塵は言います。確かに、社会が戦争(そしてオリンピックという戦争ごっこ?)している時ほど、人々が「共通のゴール」に向かって生きているのを実感できることはないかもしれない。「国家総動員」のそんな時、障害者はまっ先に「足手まとい」として抹殺されるだろう、と彼は危惧します。それは近代史でもナチスがやっていること。しかも、優生思想なら、この平和ニッポンでさえ刻々と強まっているじゃないか。「これからは役に立つ障害者と役に立たない障害者とにはっきり区別される社会状況になっていくと思う」と宇宙塵。さらに彼が次のように語る時、それを誰が杞憂ですませることができるでしょう?

 「ぼくが臓器移植をやめてほしい理由のひとつに、障害者の臓器を狙ってくるという危機感がある。役に立たない障害者が世の中のためになれるのは、ただひとつ、臓器提供だけだということになりかねないでしょ」

 ぼくはナマケモノでいたいんだ、と宇宙塵は言います。好きなように生きたいんだ。着てるものはボロでもいいんだよ。だから放っておいてくれ、と。ただ、「怠ける」といっても、それは自分に対してではなく、社会に対してなのだ、とも彼は言います。自分には自分のペースがあり、基準があり、それに従って自分なりに生きている。しかし、健全者社会が自分に押しつけてくるペースには従わない。抵抗する。それがナマケモノでいるということ。

 社会は加速する。同じ矢印の方向へ向かって、人々は先を争うように進んでいく。速さを競う社会は障害者にとって住みやすい社会ではありません。

 「ぼくも生きにくいんだよ、今の世の中。でも健全者にも生きにくくなっているんじゃないかな、ますます。いや、健全者の方がもっと生きにくいかもしれないよ、もしかすると。ぼくのようなナマケモノを見て、健全者が自分自身の生きにくさに気づいてくれたらいい」

 こんな言い方をする宇宙塵に、反発を感じる健全者は多いでしょう。「あいつは我々が頑張って働いているおかげで生きていられる」とか、「福祉に対して感謝くらいしたらどうだ」とか。障害者に対するこういう反発が社会に広く深く根を張っていることを、もちろん宇宙塵は十分承知しています。だからこそ彼はあえて言うんです、「生活保護はいただいているのではなく、奪い取っているんだ」、と。

 障害者には、福祉を受けることに対して罪の意識を感じる人がたくさんいます。健常者の「おかげ」で生きている、いや生かしてもらっているという負い目。

 「生きることに、なぜ負い目を感じる必要がある? 誰でも生きられる、障害者でも生きられる、それが当たり前でしょ」と宇宙塵。

 しかしそれが当たり前ではなくなっている社会が異常なのではないか。障害者が「ありがとう」とか「すみません」とか言いながらペコペコして生きる社会は、はたして健常者にとって生きやすい社会なのだろうか。そう宇宙塵の生き方が問うています。

  「ぼくは当たり前に生きたいだけ。だからぼくはガン・バラ・ナイ・ヨ」

(註)『読書会通信』第134号、137号の福田稔「『おっと、と、どっと』ごくろうさん。」を参照した。

上にもどる
コラムの目次にもどる