週刊金曜日・2002年7月26日号「ヴァンダナ・シヴァの眼」より転載。
Q.ディープエコロジーとは何ですか。その哲学的ルーツは?
ディープエコロジーのもっとも重要な点は、人類を突出した種として考えるかわりに、他の種とのつながりの中にあるもの、地球家族の一員であるとみなす点にあります。自分たちが多くの種の中の一つの種に過ぎないことを自覚する。そしてそういう者として、自然界に対する自分たちの要求を少しずつ減らしていく、これがディープエコロジーです。地球上で人間だけが生きる権利をもっているなんてとんでもない間違いです。あらゆる生物、私たちを取り囲む植物やその植物を生かしている土壌中の原子にさえ、生きる権利があるといえます。自分が地球家族の一員だという観点にたつと、世界の風景は一変するはずです。たとえば、土壌中の生命体を全滅させるような化学技術が利口なやり方であるとはもはや考えられない。こんなふうにこれまでの科学や技術の考え方が大転換を余儀なくされるでしょう。この地球家族という考え方こそがディープエコロジーの基本です。
でも、これは何も新しい考えではなく、持続型の{サステナブルな}文化や文明の基盤としてどこにでもあった考え方です。インド文明にも、私たち人類が地球家族の一員だという考えが基本にある。ウパニシャッドという古代インド哲学の奥義書の中では「あらゆる生物は、その生の可能性を十全に生きる権利がある”と唱っています。そして「どんな種であれ他の種の領域を侵害する権利はない」と戒めてもいる。これらは何かとても斬新な思想のように聞こえるかもしれませんが、5千年も昔にちゃんとあったものなんです。
Q.どの種にも、本来備わっている価値があるという意味でしょうか
そうです。たとえば、牛は私たち人間にミルクを供給するためだけに生きているわけじゃありませんよね。牛の価値を単にこの働きだけで測ることはできないということです。同様に木も川も、あらゆる自然の要素は、本来の価値をもっている。生きるための自己組織化の能力をもっているという、そのこと自体が価値なんです。
このことをいつも私に教えてくれるのはインドの田舎です。その奥深い懐の中で、私たちの体と魂の両方にとって必要な恵みを与え続けてきた、それがインドの母なる大地です。しかし、その偉大なる寛容さにも限りがあって、人間たちが自分勝手なふるまいをはじめると、大地は厳しい態度を見せ始めます。人間が自分たちにとって価値があるかないかだけで他の種の存在価値を決めつけようとする。この考え方の先にあるのは二つの道筋です。
ひとつは、「要・不要」という考え方です。人間にとって役に立つ種でなければ、人間はそれを絶滅に追いやってもいいというわけです。ある種が生態系全体を維持するために果たしている役割を、自分たちが理解できないというだけで、人間はその種に死刑を宣告してしまう。けれども、実際には、ある種を絶滅に追いやることで、人間は自分たちのいのちを支えている生態系を壊している。つまり自分たち自身に死を言い渡しているんです。
もうひとつの道筋、それは、「生命操作」という考え方です。つまり自分たちにとって何らかの価値があると認めた種の価値をさらに高めるために、その種のありようを操作し、歪曲し、改造するやり方です。その結果、狂牛病や他の流行疾患を招いたとしても驚くにあたりません。生命というものにはそれ自体の価値があり、独自のアイデンティティと知性があるということを無視した人間のやり方がこれらの病気を引き 起こしたんです。
Q.ディープエコロジーは現代の環境危機から生まれてきた運動ですが、その危機とはどのくらい深刻なものなのでしょうか。
もっとも直接的なのは、生命工学{バイオテクノロジー}と、それを基礎にした生命の特許化という脅威です。放っておけばこの脅威は生命の環を断ち切ってしまうでしょう。農業はすでに単一栽培化でいのちに逆行するものにされてきたわけですが、今またさらに漁業や林業や農業に遺伝子工学が採用されるようになれば、もうエコロジカルな生産方法を議論する余地もない。他の種との共存ということ自体が絶望的になるんです。
他の種は単なる原料としてみなされ、生物の多様性は破壊され続けています。これほど豊かな生物多様性に恵まれたつ美しい惑星が、産業のニーズに応えるために開発される鉱山に成りはてようとしています。もし私たちが、遺伝子工学や生命特許の考えを受け入れ、それに基づいてこの世界を生きていこうとすれば、どうなるか。私たちは常に戦争状態の中にあることになるでしょう。自分自身との戦争、自然界との戦争です。これは戦争と暴力の哲学というものです。そこでは自己が他者とは分離したもの――自然界、他の生物種、他の人間たちとは切り離された別の個であることが前提になっています。いや、単に分離しているだけではなく、敵対的な関係にある。つまり、自己と他者とはたえず戦争状態にあるということです。これに対して、「自己」のもっと大きな捉え方があるでしょう。そこでは、「他者を含む自己」という考え方です。「私」と「他者」が一緒に「自己」をつくっている。他者あっての自分。この世のすべては、永遠の関係性のうちに存在している、という考えです。インド哲学には「私はあなたである」という表現がある。美しいでしょ。一体なんです。これはマハトマ・ガンジーが唱えたことでもあります。彼はこんなふうに言っていました。
あなたがもし、自分の行動が正しいか間違っているかと迷うなら、その時は自分の知っている中でもっとも恵まれない人、これまで出会った中で社会的にもっとも不利な立場に置かれている人のことを心に思い浮かべなさい。そして、あなたの行動がその人にどういう影響を及ぼすことになるか、で判断しなさい。もしその人物を傷つけることになるのなら、その道を進んではならないし、逆にそのもっとも恵まれない人に何かの利をもたらすと考えられるなら、行動しなさい」。ここにも「他者を含む自己」という考え方が見られますね。ディープエコロジーの基底にあるのも同じ考え方です。だから、もっとも不利な立場に置かれ、もっともその存在を脅かされているものたちのために行動する、というのがディープエコロジーな「私」なんです。
貧困を生み出したものは何か。それは「人間対自然」という世界観です。この世界観は、稀少性という概念を「自然」の中にもち込み、一方で、その希少性を補い、埋め合わせるものとしてさまざまなテクノロジーを生み出そうとしてきたわけです。けれども現実には、これらのテクノロジーは、希少性を埋め合わせるどころか、環境や生態系を破壊したり、人々を一層貧しくしたり、つまりいたるところで希少性をつくり出してしまいます。たとえば、海は何世紀もの間、漁民たちに十分な食糧を与えてきた。けれど、新しい技術が次々とうみ出され、しまいにはジャンボジェット機を12機も入れることのできるような巨大な底引網を持つトロール船さえ現れて、海底を根こそぎさらっては海洋のもつ生命サイクルを破壊してしまう。
今や、こうした破壊的なテクノロジーを後押ししてきたはずのFAO(国連食糧農業機関)でさえ、世界の漁業の約90%が崩壊の淵にたっているということを認めざるを得ない状態です。要するに、もう捕るべき魚があまり残っていないんです。自分たちを貧困から守ってくれるはずのテクノロジーによって、逆にインドの漁民たちは一層貧しくさせられた。以前、漁民は決して貧しくはなかったのです。彼らなりの小規模な漁を行っていた頃は、それなりの収入を得て暮らしをたてていくことができたんです。
私は、インドでもっとも貧しいコミュニティのいくつかで活動しているんですが、貧困問題の解決策は、たいがいの場合、環境問題への取り組みの中で見出されるものです。現代インドの貧農が生き残る方法は、生物の多様性を壊すかわりに豊かにしていくような農業以外にはありません。たとえば農薬や除草剤を必要としない自然交配による在来の種子を使うということです。工業化された近代農業はどうでしょう。農夫たちは化学肥料や農薬や井戸掘りのための機器を買うのに多額の借金を背負わされ、その結果インドでは何千という農夫が自殺に追い込まれています。
こうした貧困、借金地獄、自殺といった深刻な社会問題に対するディープエコロジーの提案はシンプルなものです。ひとつは灌漑する必要のない種子を使うことです。そうすれば貴重な地下水を無理してくみ上げるための井戸を掘ったり、そのために借金をかかえこんだりしなくても済むわけですから。地球上の人間の誰もが十分な食糧と水と住みかとを得て、人間としての尊厳をもって生きること。それを実現するにはディープエコロジ―の考え方にたつしかない。つまり、貧困に対する唯一の現実的な解決策は、人類のみならず地球上のすべての命が存在する権利を認め、受け入れるところにしか見出されない、ということです。
Q.あなたは欧米社会における現代科学のあり方について手厳しく批判なさっていますね。
こういうことです。人が現実というものを知るには何通りもの方法があるだろう。それなのに近代科学は、現実を知る方法は科学一つしかないかのようにふるまってきた。全体をバラバラな部分へと還元し、分解し、分析する。計測不能の個所は切り捨てて、計測可能な部分のみを「現実」として扱う。このように現実をバラバラな部分とし扱おうとするから、相互の関係性は失われる。現実の重要な構成要素であるはずの関係性は、もうそこにはない。そもそも関係というものは計測不能なんです。
計測できるのはそれぞれバラバラな対象としての「モノ」ばかりです。そして、部分が全体から切り離されるという深刻な結果が引き起こされる。たとえば、森林と川は一体となって生態系を形成し、さらに小川の流れは大河へ、さらに海へとつながっているわけですが、そのそれぞれをバラバラに見れば、関係性としての全体は見失われる。この誤りの最たるものが遺伝学における還元主義です。いろいろな種の特性というものは環境との関わりあいの中で形成されるものですが、遺伝学者たちは、遺伝子を特定して、その遺伝子からすべてを説明しようという還元主義に陥りがちです。遺伝子工学を筆頭とする「生命の産業化」という企ては、まさにこうした誤りの上に築かれている砂上の楼閣に過ぎません。
例えば伝統社会で医術を司るシャーマンは、森に入って薬草をとる時、植物をDNAスクリーニングにかけたり、その薬効成分を実験によって分析するわけではありませんね。でも彼らは、どの植物がどう使えば、どう有効かということをよくわかっている。これらの伝統的な治療師たちは、言います。「植物が私に語る」のだ、と。こういった直接的なつながりを通してものごとを感知する能力のことを、ふつう直観と呼びますね。でも、これは直観以上のものだと私は思う。それは「知る」ということのもう一つのあり方です。そこでは、人と他の種――それが植物であれ、土壌であれ、牛であれ、羊であれ――との間には絆があって、両者の間には親密なコミュニケーションが成立しています。
生態系というものは、全体がひとつの丸ごととして自己を表現しているものであって、部分化や細分化には堪えられない。生態系のおかげで私たちは世界を知ることができる、といってもいい。インドでは、哲学を分析の過程としては捉えません。哲学は「ダルシャン」と呼ばれ、その意味は、「観る」ということです。
◆ヴァンダナ・シヴァ Vandana Shiva
1952年インド生まれ。82年に設立した科学・技術・自然資源政策研究財団を主宰。チプコ運動など環境保全や女性の人権を守る運動に深くかかわる実践家であり、開発、農業、グローバル化などさまざまな問題で積極的に発言している世界的なオピニオン・リーダーでもある。93年に「ライト・ライブリフッド賞」受賞。著書多数。邦訳書に『生きる歓び』『生物多様性の危機』『緑の革命とその暴力』がある。
http://www.vshiva.net/
訳註 略
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