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「持続可能な開発のサミット」それとも「環境破壊を支持するサミット」?
ヨハネスブルグ会議に向けて問う ヴァンダナ・シヴァ

週刊金曜日・2002年「ヴァンダナ・シヴァの眼」より転載。

世界は混沌としています。暴力がまかりとおり、社会秩序は壊れかけている。まだ壊れていない場合には、その秩序が社会や環境の破壊のために動員されている。間もなくヨハネスブルグで開催されようとしているWSSD(持続可能な開発に関する世界サミット)をとりまく世界とはそのようなものです。
持続不可能性、それこそが私たちの時代の特徴的な性格です。生態学的、社会的、経済的、政治的なレベルのすべてにおいて、今のままでは破滅的な未来しかありえないという意味での持続不可能性です。
そんな世界においてWSSDと人類共同体がなすべきことは何でしょう。そう、それは以下の4点における持続可能性の回復です。

1.土地や水、生物多様性、大気など生命維持に必要不可欠な地球資源の永続可能な利用法を回復すること
2.テロリズム、原理主義、部族紛争、戦争などによって破壊されたり、分断されたりした社会に平和を取り戻し、社会的な持続可能性を回復すること
3.グローバル化の波と自由貿易の国際ルールによる経済的圧迫を受けて、いのちを脅かされ、生活を破壊され続けている人々に経済的な持続可能性を回復すること
4.国際的にも国内的にも、政治が弱者をさらにおとしめる強者の権力の道具として見られ、政治システムの正統性そのものが問われている中で、政治を持続可能なものへと回復すること

ところが、サミットは、その準備のプロセスを見る限り、脆弱で、矛盾だらけで、第一そこには我々人類の生存を危うくしている様々なレベルの危機に対する切迫感が全く欠落しています。本番6ヶ月前という本来ならサミットに向けて人類生存のための条件を明らかにすべき時に、準備委員会が提出できたものは次のようなお粗末な「議長報告書」なるものだけでした。
議長報告書には、私たちが今直面している政治的、経済的、生態学的状況についての認識がありません。そこには地球温暖化による氷の融解や氷河の後退もなければ、自然成長率より何千倍もの速さで生物種が消滅していることもありません。遺伝子汚染の拡大、水資源の私有化とそれに伴う破壊といった問題について何一つ触れていないのです 。
これらはすべて地域社会と草の根運動とが直面し、取り組んできた問題です。エコロジー(生態学)とエコノミー(経済学)がぶつかったところに生じる問題であり、人類の今後の生存と発展とを左右する問題です。
議長報告書では、環境や経済の危機などまるでなかったことのよう。そしてあいも変わらず「同じものをより早く、そしてより多く」こそが「持続可能な開発」を可能にする処方箋だとしているのです。従来の開発モデルとそのグローバル化が、環境、経済、政治のどのレベルにおいても持続不可能であることを、あらゆる指標がはっきり示しているにもかかわらず、です。
さらに議長報告の具体的な内容を見てみれば、サミットの準備プロセスそのものが矛盾だらけだということがわかります。
一例を挙げれば、第4f項でこう言っている。食糧生産地における食糧自給率を向上させることによって輸送コストを下げ、国際市場への過度の依存を避けることができる、と。これは、地域の自立の方向を向いたローカリズム的な提言です。
その一方で、グローバル化についての18項では、自由貿易をもちあげ、「ドーハ提言{アジェンダ}」の推進を謳っています。ドーハ会議では、水を含むあらゆる環境財とサービスを自由貿易の対象にするという決定がなされたのでした。
これは、第4h項と全く矛盾するものです。そこには、貧しい人々のために、土地や水資源やその他農業のために必要な条件を確保し、農地所有制度を修正して先住民にみられるような伝統的な入会権や共同体による資源管理システムを認め、保護するよう、国家に要請する、とあるのですから。

議長報告書やサミット準備プロセスに表れたこれらの基本的な矛盾は、本来全く別の次元に属すべき二つの認識枠組み{パラダイム}を同じテキストの中に無理やり押し込んだ結果なのです。
その一つは、エコロジーを基本とし、民衆を中心に、そして地球を中心に置くパラダイムです。もう一つは金融を基本とし、企業を中心に、貿易を中心に置くパラダイムです。この両者のうち、10年前のリオの地球サミットにおける「アジェンダ21」や「生物多様性と気象変動に関する条約」を生み出したのが前者のエコロジーの枠組みであり、グローバル経済を進めるWTO、世界銀行、IMFなどの活動を支えているのが、後者のパラダイムです。
この二つの枠組みの矛盾が、あのWTOのシアトル会議をめぐる衝突となって表れたのであり、今またヨハネスブルグ・サミットの準備の過程や議長報告書などの関連文書の中にも表現されているというわけです。
今まさにWSSDサミットをWTO化してしまおうとする企てが進行しています。その過程で、犠牲にされようとしているのは我々の生活であり、また我々の生存そのものを支える生態系の持続可能性なのです。リオと違って今回のヨハネスブルグ・サミットでは「地球」という文字をとり去って、ただ単に「貧困」や「開発」のみに触れているのですが、そこに、サミットを「民衆中心・地球中心」から「企業中心・貿易中心」へと変身させようという意図が窺えます。

問題なのは、「貧困」と「開発(デヴェロップメント)」という表現です。エコロジーの枠組みの中で使われるのか、商業的な枠組みの中で使われるのかによって、意味が大きく違ってきます。
人類の3分の2が日々の糧を直接、大地や水、生物多様性に頼って暮らしている。だからその資源が破壊されたり、私有化されたりすれば、これらの人々は生きる手段を失い、貧困を余儀なくされます。
一方、その同じ破壊が市場経済においては「成長」とみなされるのです。ダム、高速道路、港湾は、商業的枠組みの中では「開発」プロジェクトの花形です。けれども、地域コミュニティはいつもこれらのプロジェクトに抵抗します。なぜなら、こうした開発は、そこに住む人々の家庭やコミュニティを壊したり、生活の基盤を奪ったり、文化の断絶をもたらしたりして、結果としてその地域の発展をおしとどめ、かえって「低開発地域」におとしめてしまうことになるからです。
第三世界において、環境{エコロジー}運動は、貧困や発展阻害に対抗する抵抗運動です。環境運動といえば北半球の裕福な国だけの専売特許だと思わないで下さい。生き生きとした力強い運動が、「南」の国々においても展開されているのです。
もはや以前のように、環境運動というものを特定の場所で起る地域限定的な出来事とみなすことはできません。目先の商業的利益のために自然や社会を搾取するという、これまでの「開発」に対抗するものとして、「南」における環境運動はいまや普遍的で全世界的な意味をもつことになりました。
「開発」という名の取り返しのつかない破壊によって生命の存続そのものが危機にさらされるに及んで、私たちは根本的な見直しを迫られています。それは単に、個々の環境破壊型プロジェクトを再検討するといった意味にとどまらず、こうしたプロジェクトを産み出してきた「開発」という概念や思考の枠組みそのものを見直す、ということです。
環境{エコロジー}運動はこれまで次のようなことを明らかにしてきました。現在行われている「開発」なるものは資源の集約的な搾取を意味しており、だから初めから環境破壊や経済的略奪を内包するものだということ。また、環境をめぐる問題は単に金銭上の損失や利益の問題ではないということ。生命や健康の基盤そのものの破壊は、単にお金の損失ではなく、まさにいのちそのものの問題なのですから。つまり環境運動の一番重要で普遍的な意味は、「再定義」という点にあるのです。「開発」とは何か、経済価値とは何か、技術効率性とは何か、科学的合理性とは何か、を改めて問い直し再定義する。こういってもいいでしょう。エコロジーとは、私たちが編み出そうとしている新しい文明にふさわしい、新しいエコノミーの創造なのだ、と。

ヨハネスブルグ・サミットでは、「環境か、あるいは開発か」とか「エコロジーをとるか貧困をとるか」という問題のたて方をしてはなりません。こういう二者択一にはまりこむと、本来、環境と経済の間にあるはずの関連性が見失われてしまう。実はもともとこの両者は、「片方が立てば他方が立たず」という相矛盾した関係ではなかったはずなのですから。本当の矛盾はどこにあるかといえば、資源の私有化を基礎とした自然破壊型の経済と、地球の贈り物である土地や水や生物多様性などの資源を分かち合う自然保全型の経済との間にこそあるのです。
エコロジーとエコノミーは、ともに家庭を表すギリシャ語「oikos」を語源としています。けれども、開発重視の市場経済の文脈においては、いとこ同士のようなこれら二つの言葉は互いに相いれないかたき同士のような関係になってしまったのです。「経済発展のためには環境破壊もやむを得ない」という説明がされてきました。自然界においては複雑な生態系のシステムの中で生産と再生産が絶えず繰り返されています。つまり自然界の「経済」において、生産は生態系のプロセスの一部なのです。ところが、「開発」の経済学の中では、それは経済とみなされず、生産とか生産性とかということばは市場経済のための工業生産システムの文脈の中でだけ意味をもつものとされてきたわけです。林業や農業のように生産物が生き物だという場合にさえ、市場価値をもつ商品の生産という狭い捉え方で片づけられてきました。

経済成長の考えに基づいた「開発」においては、市場で値をつけられず、商品生産にも寄与しないような資源や資源プロセスがすべて無価値のものとされてしまいます。この考え方がこれまでしばしば、人々の生存の基盤であった資源を破壊したり、奪ったりする「地域開発計画」なるものを生み出してきたのです。多目的共有森林を工業用木材の単一栽培プランテーションに変えるといった資源の転用、共有資源の破壊、そして自給用の農作物や飲料水の商品化。どれも市場経済の中で、経済開発プログラムとしてよく提案されるおなじみの方法です。しかしそれらは、本来の「自然と生存の経済」の文脈においては「不経済」を意味し、発展の阻害をしか結果しません。環境運動が「開発」に反対するのは、それが生存の基盤そのものの破壊を意味するからです。ですから、第三世界における環境運動とは、富裕な人々の暇つぶしなどではありません。それは、市場経済の保護を受けるどころか、逆にその拡大によっていのちを脅かされる大多数の民衆による生存のためのやむにやまれぬ行動なのです。
ヨハネスブルグ・サミットに向けた第三世界の環境運動からの問いかけは、次のようにシンプルなものです。

 ひとつ、地球の資源は貧しい人の暮らしを支えるのか、それとも、企業に利益をうみ出し続けるのか?
 ひとつ、水と生物多様性は、地域共同体の共有財産とみなされるのか、それとも、グローバル企業の私有財産とみなされるのか?

大地と水と生物多様性をめぐる問題は、富めるものと貧しいものとの格差、強者と弱者との経済対立の中心にあるものです。経済の問題は同時に環境と生態学の問題なのです。今こそエコノミーをその本来のルーツであるエコロジーへと連れ戻す時です。今こそ「オイコス(oikos)」、つまり自分の「家」へと帰ってゆく時なのです。それなしに平和も正義も持続可能性もありえないのですから。
今回のヨハネスブルグにおける会議は、その「家(オイコス)」へと帰郷するためのよい機会です。ヨハネスブルグのある南アフリカはかつて人種隔離主義{アパルトヘイト}に引き裂かれていました。そして今世界は、資源の不公平な分配とそれによって引き起こされる貧困や発展阻害という新しいアパルトヘイトに引き裂かれています。その終焉を祝うサミットにしなければなりません。


(表題に註)WSSDとは「持続可能な開発に関する世界サミット」を意味するWorld Summit on Sustainable Developmentの頭文字だが、シヴァはそれをもじって「環境破壊を支持する世界サミット」(World Summit for Supporting Destruction)ではないかと揶揄している。

(編集者へ註):文中の{ }はルビとして前のことばにかかります。
 
  ◆ヴァンダナ・シヴァ Vandana Shiva
1952年インド生まれ。82年に設立した科学・技術・自然資源政策研究財団を主宰。チプコ運動など環境保全や女性の人権を守る運動に深くかかわる実践家であり、開発、農業、グローバル化などさまざまな問題で積極的に発言している世界的なオピニオン・リーダーでもある。93年に「ライト・ライブリフッド賞」受賞。著書多数。邦訳書に『生きる歓び』『生物多様性の危機』『緑の革命とその暴力』がある。
http://www.vshiva.net/
 
訳註 略

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