野草手紙(2)「野草」と「雑草」

2011年12月15日

その他

文:小野寺雅之

【写真:津波被害を受けながらも、今年も自生したクレソン@ケセン】

『野草手紙』の巻末に、社会復帰してからの講演録「根をはって」が収録されています。

講演のテーマは、「雑草とは何か、そして、雑草の捉え方ひとつで、この世の中は変えてゆける」というもの。ファンさんが「雑草」ではなく「野草」という言葉を使う理由もここに述べられています。
ファンさんは、ソウル大学で農学を学び、アメリカに留学。釈放後はイギリスに留学して農業生態学を学んでいます。「雑草」について、単なる思い入れを排し、該博な知識の裏付けによる精緻かつ柔軟な考察が展開されています。

まず、「雑草」という言葉そのものの問題。

「雑草の立場からすれば、自分が雑草と呼ばれるなど心外でしょう。けったいな作物を植えつける代わりに自分たちを根こそぎ除去しようとする人間の行為は、雑草にとって耐えがたい屈辱なのです。」

イギリスのある雑草研究者が「雑草の理想形」について、こう述べているそうです。

「理想的な雑草とは、やたらとでかく、生長のスピードが速く、みっともなく、役立たずで、蜜もなく、野性的な魅力もなく、数が多く、すぐに繁殖し、まずく、トゲが多く、アレルギーを引き起こし、毒性を持ち、鼻を突くような悪臭を放ち、瞬く間に葉が生い茂り、栽培が難しく、除草剤への耐性が強く、根がごつごつとしているものだ。」

僕も百姓の端くれですし、雑草には苦労させられてきましたから、うなずくところがないわけではありません。でも、なぜ人間は雑草をこれほどまで悪者に仕立て上げようとするのでしょうか。

「一度、考えてみましょう。地球上で、これまで知られてきた植物種―もちろん、いまだ知られていない植物、名づけきれなかった植物種のほうが多いのですが―は、約35万種もあるといいます。その植物のうち、人間が栽培して食べているものは約3千種。差し引いて、ほぼ34万7千種の植物を雑草だといって抹殺する、そんな愚かなことを人間は試みているのです。何を根拠に、雑草などと言えるのでしょう。だからわたしは、雑草という言葉は使いません。代わりに、野草と呼んでいるのです。」

「野草が成長していくようすをじっくり眺めてみましょう。けっして、意味もなくそこに芽生えたわけではありません。神がこの世を創造されたとき、不要なものなどひとつもつくられませんでした。野草も同様に、すべて自然と大地が必要としているからこそ、その場所で育っているのです。たとえば、ある野草などは、痩せた土壌に生を享け、その土壌に栄養分を供給するため、地中深くまで根を下ろし、地中の岩盤からミネラルを吸い上げて土壌を肥沃にしています。」

また、空気中から必要な無機質を吸収して土壌に送り込む草や、土壌浸食を食い止めている草もあります。雑草という存在の意味を、われわれ人間はいまだ解明できずにいることを忘れてはならないのです。

「雑草とは、その価値がいまだわたしたちに知られていない草を指す」
 A weed is a plant whose virtues have not yet been discovered.

これはアメリカの作家ラルフ・ウォルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson)の言葉ですが、ファンさんは、「これぞ、真髄に迫る定義」としています。本来、植物こそが大地の主であり、地球上に動物が生きられる条件を作り出してくれているのも植物なのです。

「わたしたちはこの雑草のおかげで生きていられるということを胸に刻みつける必要があります。」

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